女流作家「子猫殺し」 ネット上で騒然(J-CAST)
坂東眞砂子さん「子猫殺し」コラム、掲載紙に抗議殺到(読売新聞)
騒ぎになっているのは「こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている」という文章ではじまる「子猫殺し」と題されたエッセイ。
タヒチに住んでいる坂東さんは、家の隣の崖の下の空き地に、子猫が生れ落ちるやいなや放り投げているという。
猫に言葉が話せるなら、避妊手術など望むはずがないし、避妊手術を施すのが飼い主の責任だといっても、それも飼い主の都合。「子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずに済む」。そもそも、「愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。獣にとっての『生』とは、人間の干渉なく、自然のなかで生きることだ」。人間は、避妊手術をする権利もないし、子猫を殺す権利もないが、「飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない」。
「自分の育ててきた猫の『生』の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである」
人間の都合で子猫を殺すのと成猫を去勢するのは同等に残酷、というのが坂東眞砂子さんの主張なわけですな。おそらく、現代日本人の多数はこの考え方に同意しないでしょう。私も、子猫殺しよりは去勢の方がまだマシだと思います。
しかし、坂東さんの考え方がさほど突飛だと思いませんし、極端に残酷だとも思いません。昭和初期以前に遡れば、日本でも口減らしのための「間引き(新生児殺し)」が行われていたという歴史的事実があります(貧困や避妊技術未普及ゆえのやむを得ない選択だったのでしょうが)。非現実的な仮定ですが、坂東さんのコラムが60年前に発表されていたとしたら、抗議する人などほぼ皆無だったでしょうし、反感を覚える人もずっと少なかったと思われます。
文化や時代が異なれば、動物の生命に対する見方も異なるということを思い起こさせてくれるという意味で、坂東さんの主張には存在意義が十分にあると思います。賛同はしないですけどね。