そこで、誰に訊かれたわけでもないのですが、ここで、いわゆる「ら抜き言葉」に関する私の見解を書いておきます。とは言え、私と同様の認識の方が多数派ではないかと推測します。
念のための補足:「ら抜き言葉」とは、「見れる」「食べれる」など、上一段および下一段活動の動詞を可能動詞化する用法のこと。現段階では正しい日本語とは認められていません。
私の結論:「ら抜き言葉」はある意味で合理的なので、これを使いたいと思う人の気持ちはよく分かる。だから使用する人を咎めるような真似は決してしない一方、自分自身では「ら抜き言葉」を使用しない。
「ら抜き言葉」がある意味で合理的である理由は、単に「見られる」だけでは可能なのか尊敬なのか受身なのか判断できないが「見れる」なら可能の意味で用いていることがすぐわかる、ということ。これはかなり大きな要因だと思います。
しかし、私自身は「ら抜き言葉」を使いません。理由の1つは“非合法”だから。たとえば大麻は危険性の少ないドラッグであり、合法とする国も存在することは事実ですが、日本では非合法なので決して用いてはならないようなものです……たとえが悪いかもしれません。もう1つの理由は、「ら抜き言葉」の響きに個人的に違和感を覚えること(単なる主観的な美意識に過ぎませんが)。先程書いた意味の判別にしても、実際には前後関係で可能、尊敬、受身のいずれなのか判断するのは難しくはないことが多いものです。
将来的には「ら抜き言葉」が許容される方向に向かう可能性は十分にあるでしょう。そうなったら、私も堂々と使ってみようかと思っています。
【関連リンク】 「ら抜きことば」資料(大阪外語大・小谷野哲夫さんのpage)
ところで、「ら抜き言葉」とは別な話ですが、「憎しみ」というのは「憎し」という形容詞が変化した言葉であり、「憎しむ」という言葉は殆どの辞書に載っていません(私が確認した限り『広辞苑』が古語扱いで載せているのが唯一の例外)。れっきとした誤用なのですが、Googleで検索すると、約6000件もヒットします。使っている人たちは、「悲しむ」や「楽しむ」が正当な言葉なのだから「憎しむ」も同様だと思っているのでしょう。自然かつ合理的な思考だと思います。でも、「ら抜き言葉」と異なり、「憎しむ」を“合法化”させようという動きがないことは少々不思議であります。
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あるいは尊敬の意を込めるときは「ご覧になる」と言っているんでしょうか「ら抜き」ユーザは? ならばやはり分化させなくていいことになります。
分化という理屈が後付けなのではと疑ってしまいます。
感覚的に、分化した方がある意味ですっきりするような気がする、というだけです。
ら抜き言葉を擁護する他の言い分として、
「1音節短くなるので会話のテンポが良くなる」
というのもあるようです。
(参考:http://homewww.osaka-gaidai.ac.jp/~koyano/koukousei/ranuki.html#05)
これも、とても感覚的な立場です。
言葉の問題は、理屈だけでは解決し得ないのかもしれません。